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名古屋地方裁判所 昭和57年(ワ)1153号 判決

原告 ライオン交通株式会社

右代表者代表取締役 大和定一

〈ほか一名〉

右両名訴訟代理人弁護士 数井恒彦

被告 水野真紀子

右法定代理人親権者 水野恒男

水野純子

右訴訟代理人弁護士 冨島照男

小島隆治

安井信久

中山信義

主文

原告らの請求を棄却する。

訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

一  当事者双方の申立

1  原告

(一)  被告は原告らに対し、一九〇万円及びこれに対する昭和五七年一月一日から支払ずみに至るまで年五分の割合による金員を支払え。

(二)  訴訟費用は被告の負担とする。

(三)  この判決は、仮に執行することができる。

2  被告

主文と同旨

二  当事者双方の主張

1  請求の原因

(一)  原告らと被告との間において、昭和五六年一二月二五日同年一月一七日名古屋市東区和泉二丁目一〇番六号において発生した交通事故に関し、左記のとおりの本件示談が成立し、原告らは被告に対し、示談金二三〇万円を支払った。

(1) 原告らは連帯して被告に対し本件事故に基づく損害賠償として、既に支払ずみの金員(八一万五四〇六円)のほか、二三〇万円の支払義務あることを認め、これを昭和五六年一二月二五日限り、被告に持参又は送付して支払う。

(2) 治療費は、本日までの分を原告らの負担とし、以後の分については被告の負担とする。

(3) 本件事故による自賠責保険金(傷害分及び後遺障害分―現存する顔面醜状)は原告らにおいて請求受領することとし、被告は右請求手続に協力する。

(4) 被告において将来別途咀しゃく機能障害の後遺症が発生した場合には、被告は被害者請求によって自賠責保険金を請求受領し、これをもって満足することとし原告らに対し損害賠償請求しない。

(5) 被告は原告らに対するその余の損害賠償請求権を放棄する。

(6) 原告らと被告は、本件事故に関し本示談条項以外に何らの債権債務のないことを互いに確認する。

(二)  本件示談は、被告の顔面の醜状が自賠法施行令別表第一二級一四号に該当し、その後遺障害分として自賠責保険から二〇九万円の保険金が支払われることを前提にしたものである。すなわち、本件事故による被告の入院期間は五四日間、通院期間は四日間であって、支払ずみの治療費は八一万一九〇六円に達していたから、その余の損害額は、もし後遺症がないとすれば、慰藉料一切を含めても四〇万円を越えるものではなかったが、被告代理人として示談交渉をした弁護士安井信久は、被告の顔面の醜状が自賠法施行令別表第一二級一四号に該当し、必らず自賠責保険から二〇九万円の保険金が支払われると確約したので、原告らはこれを信じて本件示談をしたものである。

(三)  しかるに、示談成立後に原告らが自賠責保険金の請求手続をしたところ、「色素の沈着はきわめて薄く一見して人目につくほどのものではなく、認定の基準に達しない。非該当である。」として後遺障害がないと結論され、予定していた二〇九万円の支払を受けることができなかった。

(四)  したがって、原告らがした本件示談にはその要素に錯誤があって無効ということになるので、原告らが被告に支払った示談金二三〇万円のうち前記(二)の四〇万円を差し引いた一九〇万円は、被告が法律上の原因なくしてこれを取得したものとして原告らに返還すべきものである。

仮にそうでないとしても、被告代理人として示談交渉をした安井弁護士は、自賠責保険から確実に二〇九万円の保険金が支払われる旨申し向けて原告らを欺罔し、その結果として本件示談をさせたから、原告らは、昭和五七年四月一六日に被告に到達した本件訴状により本件示談を取り消す旨の意思表示をした。よって、原告らが被告に支払った示談金二三〇万円のうち前記(二)の四〇万円を差し引いた一九〇万円は、やはり被告の不当利得となるので、これを原告らに返還すべきものである。

(五)  以上のとおりであって、原告らは被告に対し、一九〇万円及びこれに対する弁済期到来後の昭和五七年一月一日から支払ずみに至るまで民法所定年五分の割合による遅延損害金を支払うことを求める。

2  請求の原因に対する被告の答弁及び主張

(一)  請求の原因(一)は認める。同(二)は否認する。同(三)のうち自賠責保険金の請求が排斥されたことは認める。同(四)は否認する。

(二)  本件示談は、原告ら代理人として原告会社の示談交渉担当者である営業部長秋山嘉一郎及びその親会社のつばめリース株式会社の損害保険部長森英俊の両名と被告代理人である安井弁護士とが三回にわたってきわめて冷静かつ理知的に交渉した結果成立したもので、そこに錯誤や詐欺の入り込む余地はないものである。すなわち、本件事故は、当時四歳の被告が原告会社のタクシーにはねられ、下顎部骨折、顔面挫創の傷害を受け、入院治療の結果、左下頬部及びおとがい部に手術創、瘢痕形成を残し、将来、永久歯胚への影響、交合不全のおそれを残す状況にあった。右の状況を踏まえて原告ら代理人と被告代理人との間で交渉したところ、原告ら代理人は、当初、本件事故については、自賠責保険の被害者請求で処理して欲しい旨主張したが、被告代理人がこれを拒否し、診断書のコピーを示して被告の醜状障害について説明し、過失割合についても話し合った結果、原告らが直接被告に対して損害金を支払うことが約定されたものである。そして、右交渉の過程で自賠責保険の認定の問題が出たが、被告代理人が「一二級の認定がされない場合でもその危険は原告らにおいて負担して頂くことになる」と指摘したところ、原告代理人森は、これを了承し、「自賠責保険は自分達の専門分野ですので何とかなります。ただ顔写真だけは出して協力して下さい」と答え、結局、原告ら代理人としては、自賠責保険の認定がされない危険のあることを明確かつ十分に認識し、しかもその危険は少ないものと自ら判断して本件示談を成立させたのである。

したがって、本件示談について原告ら主張の錯誤はなく、いわんや被告代理人が欺罔行為をしたことは全くない。

三  証拠関係《省略》

理由

一  請求の原因(一)は、当事者間に争いがなく、これと《証拠省略》によれば被告代理人である弁護士安井信久は、被告の顔面の醜状が自賠法施行令別表第一二級一四号に該当するものとして原告らに示談を申し入れ、原告ら代理人である秋山嘉一郎、森英俊の両名も、これを前提として交渉を行い、その結果として本件示談が成立するに至ったもので、そこでは、被告に自賠法施行令別表第一二級一四号に該当する後遺障害があること及び右後遺障害による慰藉料を含む自賠責保険金の請求受領の手続を原告らにおいて行うことが本件示談の内容となっていたことが明らかである。

二  そして、当事者間に争いのない事実と《証拠省略》によれば、原告らが、被告に対して示談金の支払をしたのち、自賠責保険金の請求手続をしたところ、「顔面及び頸部に瘢痕を認めるが、色素の沈着はきわめて薄く、一見して人目につくものではなく認定の基準に達しない」、「自賠法施行令に該当する後遺障害はない」と判断され、結局、後遺障害による慰藉料については自賠責保険から保険金の支払を受けることができなかったことが認められる。

三  そこで、本件示談において、自賠責保険から自賠法施行令別表第一二級一四号に相当する保険金の支払われることがその内容となっていたかどうか、換言すれば、本件示談は、自賠責保険から右等級に相当する保険金が支払われることを前提とし、これを意思表示の内容として成立したかどうかについて検討する。原告らは、この点について、被告代理人である安井弁護士が、被告の顔面の醜状が自賠法施行令別表第一二級一四号に該当し、必らず自賠責保険から二〇九万円の保険金が支払われると確約したので、原告らは、これを信じて本件示談を成立させたものであるとし、自賠責保険から右等級に相当する保険金の支払われることが本件示談の内容となっていた旨の主張をする。そして、原告ら代理人として本件示談に関与した証人秋山嘉一郎、同森英俊の証言中には、右主張にそい、かつ、安井弁護士は、損害保険会社の顧問弁護士の事務所に所属しているので、その発言を頭から信用した旨を述べた部分がある。

四  しかしながら、右各証言は、次に述べる理由により直ちには信用することができず、結局、本件示談においては、自賠責保険から自賠法施行令別表第一二級一四号に相当する保険金の支払われることが示談の内容となっていたとまでは認めることができない。まず、第一に、前記証人秋山、同森の各証言中には、被告代理人である安井弁護士の発言を一方的に信用したかのように述べた部分があるのであるが、他方、右各証言によると、本件示談当時、秋山は、原告会社の営業部長の地位にあって、交通事故の処理関係の仕事を約一〇年間経験し、また、森は、原告会社と資本を同じくする別会社の損害保険部長の地位にあって、通算すると二四、五年間右の仕事をしていたというのであるから、それぞれ、交通事故の処理については豊富な経験を有していたことが明らかであり、したがって、秋山、森の両名とも、後述するような自賠責保険の建前や保険金支払の要件も十分に知っていたものと認められるので、たとえ被告代理人が損害保険会社の顧問弁護士の事務所に所属する弁護士であるからといって、右代理人の発言を一方的に信用したものとは直ちには考えられないところである。とくに、前記証人森の証言によると、同人は、後遺障害を伴う事故の示談交渉においては、一般に、予め自賠法上の等級を認定してもらうか又は後遺障害の診断書の提出を受けて特定の等級に該当すると判断したときに初めて示談をするようにしており、かつ、そのような形で示談した場合にのちに自賠責保険の請求手続において後遺障害がないとされたことは一度もなかったとのことであるが、ところが、右証言によると、本件では、予め後遺障害の等級を認定してもらうこともなく、いわんや後遺障害の診断書もみせられないまま(同人が診断書をみせてくれといったところ、被告代理人から断わられたという。)、被告代理人の発言のみに基づいて自賠責保険から自賠法施行令別表第一二級一四号に相当する保険金が支払われるものと信じたというのであって、前記のような経験や一般の処理方法と対比して余りに異例かつ軽率というほかなく、同人が本人のみに限って右のような処理をしなければならない必要なり事情があったとも認められないのである。第二に、被告代理人として本件示談に関与した証人安井信久の証言中には、同人は示談交渉の過程において、原告ら代理人に甲第二号証の後遺障害診断書を示し、被告の顔面の醜状が自賠法施行令別表第一二級一四号に該当すると説明したが、そのとおりの自賠責保険金が支払われるかどうかについては、万が一支払われない場合でも加害者においてその危険を負担してもらうと述べたところ、原告ら代理人は、これを了承するとともに自賠法には裏があるので上手にやると発言した旨を述べた部分があり、右供述は、後述する自賠責保険の建前や前記のような原告ら代理人の事故処理上の経験に照らして一概には排斥することができず、少なくとも、前記証人秋山、同森の各証言に対する有力な反証となるものである。第三に、自賠責保険は、被保険者が被害者に対して交通事故に基づく損害賠償の支払をした場合にその支払の限度においてこれを事後的に填補することを原則とするものであるが、填補すべき損害の有無及びその額については、いわゆる損害査定要綱に基づき、独自の立場で決定することが認められており、したがって、たとえ事故の当事者が自賠法施行令別表の特定の等級に該当する後遺障害があるものとして示談を行い損害賠償の支払をしたとしても、必らず自賠責保険からそのとおりの保険金が支払われるとは限らないのである。そして、このような自賠責保険の建前や保険金支払の要件については、弁護士である被告代理人はもとより、交通事故の処理に豊富な経験をもつ原告ら代理人も十分に知っていたものと認められるから、これらの代理人が関与し、しかも慎重な検討の結果成立した本件示談において、自賠責保険の独自の決定にまつほかない保険金の支払という不確定要素のある事項が確定的な前提として示談の内容となっていたとはとうてい考えられないのである。第四に、本件示談においては、「本件事故による自賠責保険金(傷害分及び後遺障害分―現存する顔面醜状)は原告らにおいて請求受領することとし、被告は右請求手続に協力する」とあるのみで、それ以上の条項はないが、これは、原告らと被告の各代理人が自賠責保険から確実に後遺障害分の保険金が支払われるものとしこれを自明のこととしていたためというより(このようなことは、前述した自賠責保険の建前及びこれに対する右各代理人の知識、経験に照らしてありえないところである。)、保険金の支払に関しては、将来にわたる不確定要素のある事項であることから、示談交渉の過程ではとくに話題にならなかったか、又は、仮に話題になったとしても、事情によっては支払われない場合のありうることも当然のこととして了解されていたためとみることの方が合理的である。原告ら主張のように、自賠責保険から保険金の支払われることが本件示談の内容となっていたものとすれば、原告らと被告の各代理人の知識、経験に照らし、必ずや、間違いなく保険金が支払われることを示す客観的な裏ずけが収集されるか、又は、万が一保険金が支払われない場合を予想した条項の設けられるのが当然であると考えられるところ、本件では、右のような裏ずけが収集されたことはもとより、保険金が支払われない場合の条項が設けられたこともないことが明らかであって、このことは、保険金の支払に関する上述した見方の正当性を根拠づけるものというべきである(本件示談において、原告らが自賠責保険金を「請求受領する」と定められているのは、保険金が確実に支払われることが前提となっていたためというより原告が自賠責保険金の請求手続を行いそれが支払われる場合にはこれを受領する、との将来にわたる事項を定めたにすぎないものと解すべきである。このことは、本件示談の第四項の用語法からもうなづかれるところである。)。

五  以上に述べたところを総合すると、本件示談においては、被告の顔面の醜状が自賠法施行令別表第一二級一四号に該当する後遺障害にあたるものとして交渉が行われ、原告らが、これに対する慰藉料を支払い、かつ、右後遺障害に関する自賠責保険金の請求手続をすることが約定されたが、自賠責保険から右等級に相当する保険金が支払われることについては、示談交渉の過程ではとくに話題にならなかったか、又は、原告ら代理人において場合によって支払われないことをも予測に入れた何らかの対策を考えていたか、のいずれかであって、本件示談が自賠責保険から約定したとおりの等級に相当する保険金の支払われることを前提とし、これが意思表示の内容となっていたものとまでは認めることができないのである。したがって、右保険金の支払われることが本件示談の内容となっていたことを前提として、その錯誤による無効をいう原告らの主張は、意思表示の内容として表示されていない動機に属する事項を持ち出して意思表示の効力を否定するか、又は、示談の際に考えていた対策の不首尾を錯誤に名を藉りて主張するものというほかなく、採用することができない(なお、被告の顔面の醜状が自賠法施行令別表第一二級一四号に該当すること自体については、たとえそれが事実に反するものであったとしても、原告らと被告が争いの対象とし、かつ、互譲によって解決した事項であるから、和解の性質上錯誤が問題となる余地はないと解される。)。

六  また、右に述べたところからすれば、被告代理人である安井弁護士が、自賠責保険から確実に保険金が支払われる見込みがないのにそれがあるかのように申し向けて原告ら代理人を欺罔したものとはいえないから、詐欺による本件示談の取消をいう原告らの主張も理由がなく、採用することができない。

七  よって、原告らの請求を棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九二条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 太田豊)

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